渟足柵ってなに?
最終更新日:2023年9月19日
7世紀ごろまで、大和朝廷の支配が及ばない日本の北方に暮らす人々を蝦夷(えみし)と呼んでいました。渟足柵(ぬたりのき)はこうした蝦夷に備えた防衛施設であるとともに、都から遠く離れた地方を治める行政施設であったと考えられています。
このことは日本書紀に「大化三年(647年)渟足柵を造りて柵戸(きのへ)を置く」と記されており、歴史上、新潟に関する初めての記述とされていますが、このほかにその存在を示すものはなく、日本史上の大きな謎とされてきました。そんな中、平成2年(1990年)に長岡市の八幡林遺跡から「沼垂城」「養老」と記された木簡が見つかり、名前を変えながら養老年間(720年ごろ)に存在していたことを示唆する発見として、渟足柵の信ぴょう性が大きく増しました。
渟足柵の場所はいまだに分かっていませんが、元新潟市歴史博物館の小林昌二館長(新潟大学名誉教授)は、その研究成果から、現在の東区内にあたる旧沼垂が最も有力と語っています。
もし東区で渟足柵が見つかれば、東区民・新潟市民の大きな誇りとなり、日本史を塗り替える大発見となります。
東区のどこにあったのか
元新潟市歴史博物館の小林館長は、渟足柵が眠る有力地を2カ所を挙げています。
山の下・王瀬地区 |
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河渡地区 |
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江戸時代の亨保15年(1730年)以前、阿賀野川は信濃川と河口を共有して海に注いでいました。旧沼垂、現在の山の下や河渡地区は、渟足柵があった可能性の高いといわれる、「阿賀野川右岸」にあたります。
なお、東区役所地域課による渟足柵の探索は令和2年度で終了しています。
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