黒埼南周辺
最終更新日:2018年7月24日
黒埼南観光史跡めぐりパンフレット
史跡・名所
旧武田家住宅
この建物の構造は、農作業を行うための庭、囲炉裏を囲んで食事をする茶の間、畳が敷かれた座敷や床の間や仏間、かまどのある台所、そして幾つかの寝間で構成される典型的な農家のつくりとなっています。
もともと武田家は、甲斐の武田一族の祖先が越後に逃れて、現在に至っていると言われています。
また、この建物の屋根には武田信玄と同じ家紋を用いています。
このような茅葺の家は、昭和20年代30年代まではごく普通に見ることができましたが、戦後の高度成長期の新築ブームによって衰退して、今では新潟市内でもほとんど見ることはできなくなりました。
水戸際池(みとわいけ)
川の土手が切れて川の水が流れ入る切れ口を水門というように、水戸際池は水門の際(きわ)にある池というのが、本来の由来と思われます。
この池は、水戸際池の他に、山佐池(やまさいけ)・宮池(みやいけ)・金巻池・木場池などといろいろな名称で呼ばれています。
過去の洪水によって堤防が破堤した際に、濁流によって浸食された窪地が、池として残っているものを、治水地形分類図の地形要素の名称として落堀(おつぼり)と称しています。
木場切れの落堀は、天明年間の破堤と文久3年(1863)の破堤によって池となっています。川切れの痕跡を今に残している唯一のものです。また、昭和39年(1964)の新潟地震の時には、木場切れの水戸留工事の杭が液状化によって池中から浮き上がるという現象が起きています。
宮のもり・木場城公園
この公園は上越新幹線と北陸自動車道が最も接近する場所に住んでいた民家が移転した跡地と、木場八幡宮の周辺一帯を、宮のもり・木場城公園として整備したものです。
木場城は、川や湖沼、低湿地を障害物とした水運を利用した水城で、戦国武将の上杉景勝によって築城されました。
しかし、公園の名称によって公園が立地する場所が、あたかも木場城の城跡であるかのように誤解されています。性格には「木場城の推定地」をご覧ください。
宮のもり・木場城公園には、城をイメージして造ったアスレチック施設の砦、わんぱく広場、ピクニック広場、多目的広場、とんぼ池、ジャブジャブ水路、滑り台、野外ステージといった施設が整備されています。
囲い土手
集落を洪水から守るために、集落全体を囲むように土手が築かれました。これを囲い土手と呼びます。木場八幡宮の手水舎の手前にある土手が往時の囲い土手の痕跡を示しています。また、囲い土手の高さも分かります。
木場には囲い土手の外側にもう一つの囲い土手があり、内側の囲い土手を「内囲い」、外側の囲い土手を「外囲い」と呼んでいました。
なお、隣の板井集落では「七穂囲い」と「中村囲い」、黒鳥集落では「田袋囲い」などが築かれていました。
さらにこの地域では、水害を防ぐために家屋敷の一角に地盤を高くして、そこに蔵や土蔵を立てる工夫もしています。
木場八幡宮
木場八幡宮は、木場集落の東の端に位置していて、今から300年前に建立されています。その後、昭和10年(1935)の改築の時に本殿と拝殿を分離して、本殿はその本殿の上にさらに覆いの屋根によって収められています。
その本殿は、漆で塗装されて黒と金の採食によってきらびやかで荘厳なものとなっています。
本殿は、新潟市の有形文化財に指定されて拝殿とともに新潟市民文化遺産にも登録されています。
なお、本殿は木場八幡宮の春季大祭と秋季大祭の神事の際に神官によって扉を開けたり閉めたりしますが、氏子の住民ですら普通に見ることはできません。
満行寺の大マツとケヤキ
向かって左が大マツ、右がケヤキです。大マツの樹高は25m、目通りの周囲は3.25m、根回りの周囲は5.35mです。永禄4年(1561)に植えられたと伝えられていますから、樹齢は約450年以上と推定されています。
ケヤキの大木の根元をご覧ください。根元が大きく露出しています。かつてはこの根元の上にまで囲い土手で覆われていました。
その囲い土手を現在の道路地盤の下まで削ったために根元が露出したことになります。
山際七司頌徳碑(しょうとくひ)
山際七司先生は、嘉永2年(1849)に木場村で生まれました。生涯の大半を明治という混乱期を過ごします。国会開設や立憲政治の確立などを政府に求めた自由民権運動のリーダーとして活躍しました。
山際家は、この頌徳碑の左奥にあり代々庄屋を務めた家柄です。山際七司は若くして新潟県議会議員となって、新潟県内の自由民権運動を指導したり、国会開設を求める建白書を提出したり、中央では板垣退助らとともに日本初の政党である自由党を結成して幹事に就任します。終始一貫、国家のあるべき姿を求めて尽力されました。
第1回の衆議院選挙で衆議院議員に当選しますが、その翌年に43歳の若さで志半ばでこの世を去ります。ご存命であれば日本の国づくりにさらに大きく寄与したこと必至です。
この頌徳碑は、昭和28年(1953)に山際七司先生顕彰会によって建てられたもので、正面の山際七司先生頌徳碑の文字は、当時の大野伴睦衆議院議長によって書かれたものです。また、円形になっている山際七司の肖像は、彫金作家亀倉蒲舟によって彫られたものです。
満行寺の仏足石(ぶっそくせき)
満行寺の鐘楼門をくぐって突き当たったところに仏足石が安置されています。
仏足石は釈迦の足跡を石に刻んで信仰の対照としました。お釈迦様の象徴として考え出された訳です。とくに奈良薬師寺の仏足石は、百済からの伝来で日本最古のものと言われています。
新潟県内の仏足石は妙高市の関山神社・上越市の善徳寺・阿賀野市の光明寺・加茂市の双璧寺・新潟市横越の大栄寺・そして新潟市木場の満行寺の6か所に安置されています。
仏足石は経蔵(きょうぞう)の前に安置されていて、経蔵を建立したのがペリーが来航した嘉永6年(1853)と寺の記録にありますので、その経蔵の落成を祝って安置されたものと推定されています。
回りくねった道のり
この地はかつて水郷地帯で、先人たちの移動の手段は専ら徒歩で、物を運ぶ手段として水路を舟で往来していました。
集落の成り立ちは川の両岸に沿って民家が張り付いて発展します。川といっても大きな川ではなく水路と言った方が正しいかもしれません。
このように水の流れる道筋を自由に変化させて流れることを地形用語では自由蛇行と称しています。
今では水路も埋められて道路となっています。しばらくくねくねと曲がった昔の水路の上を走ることになります。
木場城址の推定地(木場集落の西端)
昔からここに木場城があったという言い伝えが推定地とする根拠の一つです。
次に今では消えて無くなりましたが、付城がなまった助城という古地名、本丸の外周にある二の丸のことを曲輪(くるわ)と言いますが、その曲輪がなまった箕輪という古地名、さらに土手丸といった城にまつわる古い地名があったことが、推定地とする根拠の二つ目です。
三つ目の根拠として、この場所が米沢上杉家之藩山吉家伝記による木場城に至るまでの距離と時間が一致する場所となっています。
四つ目の根拠として、この周辺一帯が水によって城を守ることも、水を利用して敵を攻撃する上でも好都合な位置にあることです。
板井釈迦堂
鎌倉時代以前から、釈迦堂周辺に石塚集落・中村集落・深水集落の古代集落が存在していたと伝えられています。中村集落と深水集落はやがて今の板井集落に移転しますが、石塚集落は何かの原因である日突然に姿を消します。そこには亡霊が出るということで村人は寄り付かず、荒れ放題となって石塚のお化け荒地とも言われていました。
その後、文政年間の新田開発の最中に土の中から仏像(丈12.3センチメートルの青銅製)が掘り出されて、その出土地に志満院という日蓮宗の僧侶らが、天保3年(1832)に釈迦誕生仏を祀る石堂を建て石塚の亡霊を慰めたのが釈迦堂の始まりです。
天保8年(1837)には石堂の他に立派な御堂も完成します。写真の御堂は建て替えを繰り返して三代目の御堂となっています。
なお、釈迦堂から北西へ500メートル(北陸自動車道黒埼PA)の場所に、平安時代と鎌倉・室町時代の釈迦堂遺跡が発見されています。遺物には古代の役人が身に着けた革帯の飾り金具、円面硯(えんめんけん)と「郡」と書かれた墨書土器を出土しています。
新潟市文化財センター
新潟市文化財センターは、埋蔵文化財や有形民俗文化財を保存し、これらの活用を図ることによって、市民文化の向上に資するための教育施設です。
新潟市内には、旧石器時代から近世に至る700か所以上の遺跡があります。同センターでは、各種開発事業や史跡整備等に伴う発掘調査を行い、遺物の調査研究・収蔵保管・展示活用を進めています。
また、センターには1400点の遺物を展示する展示室、黒埼地域の民俗資料を収蔵展示する民俗収蔵庫、勾玉づくりなどの体験ができる研究室、考古学関係の図書が閲覧できる図書室があり、無料で利用できます。
緒立遺跡
緒立遺跡は、昭和27年(1952)に緒立八幡宮社殿脇から壺型土器が発見されて、遺跡の存在が知られるようになりました。
緒立遺跡は。縄文時代から中世に至る複合遺跡となっています。
西川右岸、低地帯の中の小砂丘上にあります。遺跡の推定範囲は東西500m、南北100mで、面積は的場遺跡の約4倍となっています。繰り返し行われた発掘調査で、縄文時代晩期から中世まで断続的に営まれた遺跡であることが確認されています。
緒立遺跡から出土した弥生時代前・中期の土器は、縄文時代の伝統を引く沈線模様(変形工字文など)と縄文が付けられた土器が大半で「緒立式土器」と呼ばれています。
また、掘立柱建物や井戸などの遺構やサイコロ、瓦塔、和同開珎、木簡、祭祀具などの遺物も発見されていて、官衙(役所)的性格をもった遺跡と推定され、800mほど離れた場所の的場遺跡との関係も指摘されています。
緒立八幡宮古墳
緒立遺跡の中央部に現在八幡宮が建っています。その社殿の下に古墳が存在しています。
古墳時代前期(4世紀)の葺石を伴う円墳は、蒲原平野唯一のものであり、被葬者は水上交通を掌握した有力者を想像させます。
遺体が葬られた埋葬部分は、緒立八幡宮の社殿の下に位置しているため副葬品の出土には至っていません。
墳丘の斜面を覆っている葺石は、乱雑に並べられたのではなく、一定の規則に従って並べられています。墳丘のすそに弧状に大形の石を並べ、そこから墳丘中心部に向かって放射状にやや大形の石を並べて区画を作り、最後に区画の中を充填するように石を並べています。この並べ方は近畿地方の古墳にも見られ、墳丘の斜面を覆った石には、古墳を荘厳に際立たせる効果があります。
画像:新潟市文化財センター提供
的場遺跡
的場遺跡は、緒立遺跡と同様に、縄文時代晩期から中世まで断続的に営まれた遺跡で、推定面積13000平方メートルの遺跡のうち、約4、500平方メートルを発掘調査しています。
その結果、大型の倉庫を含む14棟の掘立柱建物跡が見つかり、奈良・平安時代の8~10世紀の遺物も大量に出土しました。
管状の土錘(どすい)や木製の浮きなどの漁具と役人が身に着けた革帯の飾り金具、太刀の金具、祭祀具、墨書土器や木簡など官衙(役所)的な遺物を出土しています。
また、奈良時代に流通した和同開珎も出土。この遺跡は現在、的場遺跡公園として整備されています。
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