内野周辺
最終更新日:2023年5月31日
「内野町まち歩きガイドマップ」を発行しました。
「越後新川まちおこしの会」の写真提供と「内野まち歩きガイドの会」の編集により、内野町の歴史や見どころをたくさん掲載した新しいガイドマップができました。
ガイドマップは西区役所農政商工課、区役所西出張所のほか、商店街のお店などで配布しています。
※下記よりPDFもダウンロードできます。
史跡・名所
新川・西川立体交差
1820年に新川掘削工事で西川の下に底桶を入れ、掘割を通水したことから始まります。底桶は幅3間、高さ4尺、長さ41間で、2門が敷設されました。木製の底桶は1909年に石造りコンクリートのアーチ橋「新川暗こう」に生まれ変わり、1954年に鋼造トラスト水路橋となり、現在に至っています。新川が西川の下を通っているこの立体交差は全国的にも珍しいものです。
いちょう公園
江戸時代、内野村の庄屋であった渡部家の屋敷跡です。明治11年9月16日、明治天皇北陸東海御巡幸では、明治天皇が休憩された「御小休所」で、一緒に供奉していた土方久元の揮毫による石碑が建てられています。内野は幕末、会津藩領で、渡部家が中心となって義勇農民兵「精義隊」を結成しました。
吉田稲荷神社
内野上組の庄屋であった吉田善三郎が、京都の吉田稲荷を屋敷裏に祠を建てて祀っていたのを神社としたものです。この神社は山の頂上にあり、この山は新川掘削で切断された古い奥手山の一部でした。鳥居がいくつあるか是非数えてみてください。
金刀比羅神社
創立不詳。旧庄屋の渡部三郎兵衛が建てたもので、この辺を金刀比羅町と呼び、渡部家がこの神社の氏子総代でした。
静田神社
1888年に静田の守護神として小さな祠を建てたのを、1899年に6区の氏神として再建され、現在に至っています。社のある裏手山は新川と旧広通江との合流点に岬状をなしており、その松の緑と朱の鳥居が川面に映り絶景をなしています。このあたりは夏になると子どもが水遊びをして多くの溺死者を出していました。川の祟りがあるというので「しんがい祭」として明治中ごろ、静田孫平を世話人として社を建立し静田神社と命名されました。例祭日には水難の厄から逃れるための祈願の奉納幟が色とりどりに建てられます。境内の鳥居の左手前に乃木希典揮毫の昭忠碑と内野小学校校歌の碑があります。
三日月橋
江戸・明治時代までは「往来橋」と呼ばれ、北陸道(北国街道)が通っていました。明治11年の明示天皇北陸東海御巡幸時、明治天皇が赤塚から来る途中、この橋の上から漁師による投網漁をご覧になられました。そのコイはその日に御宿泊地である新潟の白勢家行在所へ持参し献上されました。
内野大神宮(上)
上・下と2か所ある内野大神宮のうち、弥彦側(三日月橋近く)に内野大神宮(上)はあります。上・下ともにかつては祭りの際に多くの人で賑わいました。
内野大神宮(下)
上・下と2か所ある内野大神宮のうち、新潟側(西地区公民館近く)に内野大神宮(下)はあります。上・下ともにかつては祭りの際に多くの人で賑わいました。
清徳寺
真宗大谷派。本堂脇には内野出身の農民義勇兵「精義隊」の戦没者碑「義勇碑」が建てられています。昭和63年に1世紀以上たった本堂の大改修を行い、古い鬼瓦が太子堂前に展示してあります。
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