平成30年11月16日 市長退任記者会見
最終更新日:2018年11月22日
市長退任記者会見
期日 | 平成30年11月16日(金曜) |
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時間 | 午後2時00分から午後2時43分 |
場所 | 新潟市役所(本館6階 執行部控室) |
発表内容
質疑応答
市長退任記者会見動画(11月16日開催分)
平成30年11月16日開催記者会見の動画(クリックすると録画映像をご覧いただけます)(外部サイト)
発表内容
◎市長退任のごあいさつ
まずは、4期16年、大変皆さまにもお世話になりました。市民の皆さま、そして議員の皆さま、関係者の皆さまに深く感謝申し上げます。先ほど、議場でごあいさつを済まさせていただいて、その後、会派を回らせていただきました。基本的には4期16年やって、心身共に元気で、笑顔で退任できるということで、大変ありがたいと思っています。前回、内部総括という形で次期市長への引き継ぎの意味も込めた資料をまとめたので、ここは印象的に4期16年を振り返ってみたいと思っています。
私の感じでは、初当選させていただいた2002年から2009年まで、この辺りはけっこうイケイケの感じで市長をやらせていただいたのかなと思っています。というのも、大合併、政令指定都市という大きなテーマがあったので、それをしっかりやり遂げるには、市役所改革が必要だということで、これをセットで提起させていただき、初当選させていただいたという経緯でございました。
これをしっかりやるには、まず市役所改革をやらなければだめだということだったわけですけれども、なかなか市役所職員に意識改革を求めても、当時の幹部職員は、なぜそういうことが必要なのか全く分からないというような雰囲気の中で、市役所改革も難航したというのが当初の姿だったと思います。それが2003年の夏に発覚、発生した官製談合事件。これは市民の皆さまに大変申し訳なかったのですが、市役所の改革を進めるには大変な爆発力があったということで、これによって改革が一気に進んだと思っています。そのことが大合併の議論にもいい影響を与え、黒埼の合併のときには特別職、町の特別職がみんな何かの役をやって、そして議員さんはそのまま新潟市の議員になるということで、これでは特別職、議員のための合併ではないかという批判があったわけですけれども、大合併のときには、そういうことは無理だと。合併地域の特別職、すべて腹を切るという形で、きれいな対応をしていただきました。また、議員の皆さんも1万人に1人という割合で定数特例というものを飲み込んでいただいたと。これが、大合併がうまくいった大きなポイントだと思っています。その勢いのもとで、新・新潟市合併マニフェストなるものを作らせていただき、3つの都市像を明示したということでありました。
その頃、合併効果、政令市効果がけっこう前倒しで出ていたと思っています。合併地域の売れなかった工業団地がどんどん売れてきた、まちなかは、ホテル、マンション建設ラッシュという中で、2007年当初のタイムスケジュールどおり、本州日本海側で最初の政令指定都市を樹立することができたと。順風満帆という感じもあったかもしれません。
しかし、新潟県内を見ると、2004年の7.13水害、10月の中越の大地震、そして連年豪雪、あの方が知事になってから災害続きだったという状況が一方であったと。新潟市は支援する側に回らせていただいていたということだったのですが、2007年の政令指定都市以降から間もなく、7月に中越沖地震が起きたということです。これは2度目の地震と原発絡みの風評被害ということで、大変なダメージでした。新潟の夏の海岸にあんなに人がいない、観光客が来ない夏は初めてでしたし、一方で企業立地など、残念ながら新潟に出る予定はないから、(誘致に)来てもらっても無駄ですというような時期に入ってしまったと。これが非常に残念なことだと思っています。その翌年にリーマンショックが来ました。しかし、新潟はあまり輸出型の産業のウエイトが高くないので、逆に新潟の食品産業などの力、これが非常に強いということを認識し、新しいフードバレーを作り直そうという方向もこの中で感じることができたということでありました。
そして、観光客を取り戻さなければだめだと。交流人口を新潟県が取り戻そうということで、2009年を大観光交流年として位置付けたということです。その核として、新潟市は「水と土の芸術祭」をやろうと。それは、新潟市の美術館長を北川フラムさんが当時務めていて、「大地の芸術祭」のすばらしいノウハウ、人脈があるということなので、それを活用させていただこうということで、2009年に芸術祭を開催しました。この2009年から2014年辺りが、私は一つのパッケージなのかなと。これは波瀾万丈、あるいはシュトゥルム・ウント・ドラング、疾風怒濤の時代ということだったのではないかと思います。
「水と土の芸術祭」そのものは、私は初めての芸術祭として大成功だったと思いますけれども、市美術館にカビ、あるいはクモの問題が発生し、北川フラム館長に退任していただくしかないということになりました。一方で同時並行的に次は市美術館で、国宝展をやると。奈良の古寺と仏像展をやるということで準備していたものが、私も文化庁に呼び出され、官製談合と同じぐらいマスコミが集まるという大騒ぎになったと。市美術館で国宝は展示できないということで、結局、長岡市の近代美術館が、文化庁の承認を必要としない承認展示施設であるということで、そこで開催すると。まさに私も退任を覚悟するような厳しい時期だったと。しかし、結果は、13万人が観覧いただいたということで、大成功になったということで、この危機は何とか乗り越えることができました。
一方で、当時、中国総領事館を新潟に誘致しようということで、中国の国務大臣より偉い戴秉国(たいへいこく)さんという国務委員に新潟市に来てもらい、それが転機となって新潟に中国総領事館の誘致が決まったと、設置されたというのが2010年だったと思います。その直後に、今度は尖閣の問題が突然火を噴いて、新潟市が当時進めていた中国総領事館の用地が欲しいということであっせんしていたものが大問題になり、新潟市議会は市有地を売ることはまかり成らんという、あのときは決議だったかをいただきました。これも新潟市にとっては、非常に厳しい試練であったと思います。
この頃、新潟のバス交通を何とかしなければならないということで、BRT・新バスシステムの計画が本格化してきたということでした。これについても、一部で反対運動が高まってきたと。そういう混乱の中、私は4選出馬をどうするべきなのかという決断を迫られたということでした。その頃は国家戦略特区に農業分野で選ばれていた、あるいは東アジア文化都市をぜひ新潟市にということで手を挙げていた、そういうさまざまなこともあって、あの頃はリセットという言葉を使わせていただき、あまり適切でなかったと思いますけれども、4選出馬を表明させていただいたというのが2014年でございました。
そして最後、2014年から2018年、これはどういう時代かと総括してみると、毎日がテレビドラマのような盛り上がり、混乱、それが新潟市でも、新潟県でも起きた時代だったのではないかと。そういう中で、実はこの4年間が私は一番果実も大きく、市民にお届けすることができた時期だったのではないかと思っています。
まずは4選、まさに薄氷の4選だったわけですが、その後もBRTをめぐる議論がいろいろ続いてきたと。2015年度予算はかろうじて可決を市議会でいただいたと。しかし、その9月、BRT・新バスシステム開業後、システムの混乱などで非常に市民の皆さまにご迷惑をおかけし、住民投票で是か非かというところまで問題が大きくなってしまったと。ここは誠に申し訳なかったのですが、市議会に住民投票のことについては否決をいただきましたが、その後も混乱が続いてきたということであります。しかし、一方では大きな成果として、今まで1年で80万人ほどバスの利用者が減ってきて、とうとう2,000万人を割ってしまったわけですが、3年前、BRTを導入したことにより、バス乗車の減少が明確に止まったと。1年目で止まり、増加に転じたということでありました。2年目から「シニア半わり」を導入したこともあって、3年目の数字はこれまで毎年80万人減っていたわけですから、3年で200万人以上減ることを覚悟しなければだめだったものが、逆に140万人増えたということです。2,100万人台を回復したということなので、バス交通を持続可能にする土台はおかげさまで、この4期目で作らせていただいたと思っています。
東アジア文化都市も大成功をさせていただけたと。これは新潟市に韓国、中国の総領事館があったことが大きかったと思います。中国は春節祭を新潟で定例化し、韓国はハンガウィ祭りを新潟市で開催いただけたということで、新潟の文化創造の力は極めて大きいということも確認することができました。
国家戦略特区(農業特区)の方も基本的には大きく成功を収めさせていただけたと思っています。特に農家レストラン、企業の参入もありがたいのですが、ICT農業を、規制緩和に関係なくても、どうせやるなら新潟市でやろうということで、NTTドコモやさまざまなIT企業、あるいはベンチャー企業が新潟市で新しい農業を始めていただいているということについて、これは今後に大きくつながっていくと思います。
一方で残念だったのは、2011年3.11の大震災が起きて、そのとき新潟圏域は日本最大の救援拠点として機能して、空港も港湾もJR貨物も高速道も大変な救援物資の一大ルートになり、新潟はまさに救援首都である、防災首都であるということが、国内外でしっかり認定されたと。そのときは、民主党政権でしたけれども、国土交通省に置かれた高速道のあり方を考える検討委員会、ここで新潟の救援拠点としての役割を報告しろということで、ご下命をいただいて、それを報告した結果、日本海東北沿岸自動車道は極めて重要だということで、あの高速道が整備される大きなきっかけを作ったわけであります。しかしその後、残念ながら新潟県政の混乱が大きかったと思いますが、この部分での拠点化の動きは大きなうねりにはならなかったと。そういう中で、2016年に泉田知事が4選を断念、米山県政が誕生したということでした。これもまさに毎日がテレビドラマというような雰囲気でしたけれども、それに加えて今年、さらにドラマのような展開が残念ながら新潟県で繰り広げられてしまったと。思いもよらぬ知事選が突然浮上して、私は今の花角知事を支援し、県民、有権者から当選をいただいたということになりました。
それを踏まえて、今まで一番心配だった拠点化、活性化の部分は花角知事を司令塔にして、一本化でやっていった方がいいのではないかということで、私は4期で引退をさせていただくということを表明いたしました。その後の市長選、これもいろいろと大変な選挙だったようであります。結果は中原八一さんが有権者から選ばれたということで、今、引き継ぎをしっかりとやれるという中で、明日退任の日を迎えられることは、私にとっては、半年前では考えられない展開でありました。そういうことを考えると、これまでの安心安全の土台は、市民の皆さまのご協力で新潟市は、大都市、あるいは県庁所在都市の中で最も強固なものがあると思っています。その安心安全の土台の上に今度は拠点化、活性化の花を咲かせていただき、市民の皆さんにさらなる元気をお届けできる、そういう土台はできているのではないかと考えています。
財政の問題についても、基金が枯渇したということでご心配をおかけしましたけれども、財政力指数は四つの財政主要指標の中でずっと新潟市は一番心配なグループに入っているということですけれども、ほかの経常収支比率などは、むしろ上位に位置しているものもあるということで、財政そのものの土台が揺らいでいるわけではないと。その中で、新潟市は行政として、「行政改革プラン2018」をしっかりとお作りし、それを次の市長にメリハリをつけて財政をよりしっかりとしていただく。その役割は次期市長に委ねることで申し訳ないとは思いますが、必ずや新潟は持続可能なまちづくりが展開できると考え、そういう環境で次期市長にバトンを渡せることは、私にとっては望外の幸せという感じに思っています。
今、振り返っても、けっこういろいろな局面で大きな展開があり、思わぬ展開があり、それは新潟市も新潟県も、災害という部分以外にも、人的な部分でさまざまなご心配をおかけしたこともあるのかなということで、その点については申し訳なく思っていますが、新潟市が北東アジアの拠点都市になるという中で、さまざまな取り組み、あるいは問題提起をしていく必要があったということで、長い目で見てご容赦いただければと思っています。それが先ほど、3分前まで振り返ってみるとこんな感じだったかなということで、少しメモをしてみました。私としては、このように3期に分けた16年だったと思っています。
以上です。
質疑応答
4期16年を振り返って
(記者)
4期16年を振り返られましたけれども、特に印象深かったことがあるとしたら何があるでしょうか。
(市長)
マスコミがわんさと来たというのはいっぱいありましたよね。まずは官製談合、これは忘れられません。そして、美術館の問題も我々として、北川フラムさんも含めてなのですけれども、反省すべき点があったと思っています。しかし新潟の取り組んできた芸術祭あるいは食文化が、今、まさに文化庁のこれからの文化芸術へ進む方向でど真ん中に位置付けられているということですし、北川フラムさんは文化功労者に選ばれたということなので、私どもの取り組みはむしろ先取りしすぎたのかなという部分で、時代は間違いなく私どもがやってきた方向についてきていると思いますので、新潟の文化創造は今後のまちづくりあるいはインバウンドなどを含めた活性化に大きな財産になると思っています。
(記者)
やり残したことというのはありますか。
(市長)
やはり新潟県と県内市町村がしっかりスクラムを組んで、県民に果実をお届けするという体制、これは今、非常にいい形になったと思いますけれども、果実はまだまだお届けし始めている段階だと思いますので、そこはやりきれなかったと申し訳なく思い、しかし土台は作らせていただいたので、新潟の総力を合わせるとすごいのだなということが県民、市民に実感していただけるのではないかと思っています。
(記者)
市長は43年ぶりの民間出身の市長だと思いますけれども、民間出身だからこそできたこと、逆に難しかったことがあれば教えてください。
(市長)
新潟市役所の常識は世間の非常識ですよということは、官僚出身とか、議員出身でもなかなか言えないのではないかなと。私は、その頃の新潟市役所は少し市民から遊離していると思ったので、そこをはっきり言わせていただき、また、さまざまな新潟の取り組み、マンガ・アニメなどいろいろなことをやってきたわけですが、新潟は面白いのではないかと、いろいろなことを提案しても受け入れてくれるのではないかという雰囲気が、例えば48グループが、だれが考えても次は新潟ではないと思っていたのが、NGT48が誕生したと。あの頃、がっかりするというのか、ありがたいというのか、あの官製談合事件や美術館問題などを超えてマスコミが集まってくる。48グループの選抜総選挙と、こんなに発信力があるのに、我々は何を情報発信していたのだろうねと、がっかりするくらい、民間と組むとすごいことができるということも実感できました。そういう面で、新潟の脇が甘いところが民間から見ると付き合いやすいという部分も受け止めてくれた方もいらっしゃるのではないかということで感謝しています。
(記者)
あらためてなのですが、新潟州構想とは何だったのでしょうか。
(市長)
新潟州構想は私に言わせれば簡単で、港湾なら港湾、そこにポートオーソリティを作りたいということでした。県の力、市の力、経済界の力を一つにして、司令塔は当然新潟県が港湾管理者ですので、知事でいいわけですけれども、そういうものがみんなばらばらでやっていて、情報も共有されていないということを改めたいというのが新潟州構想の提起だったと私は思っています。それが今、ありがたいことに、ほとんどその体制ができてきたと。クルーズ船、エアラインを中心とするインバウンドの増加、コンテナの集荷、新潟空港の活性化を県と市の担当が定期的に情報共有し意見交換する場を作るのだということで、花角知事から週1回ぐらいやれというご下命が出たということで、これは大変ありがたいと思っています。
(記者)
16年、重荷を背負ってこられて、明日の拉致の県民集会を最後にということで、とりあえずは一息というところかとお察ししますけれども、その後、何かなさるというお考えというのはお持ちでしょうか。
(市長)
明日の拉致県民大集会は、私にとっても大変重い出来事になると思っています。16年前の9月に小泉首相が訪朝し、10月に蓮池さん、曽我さんたちがお帰りになって、11月から私は新潟市長に就任させていただき、16年間、全く進展がなかったということで、この16年間は被さってしまっているので、新潟市長としてほかにできたことがあるのかという自問自答をしながら、結果が出なかったことについては残念であり、申し訳ないと。特に横田ご夫妻には申し訳ないという気持ちです。明日、県民大集会が終わって、どんな気持ちに自らがなるのか。それは想像がつかなくて、明日の市長任期を終えてからどんな気持ちが芽生えるのか、自分を見つめてみたいと思っています。
(記者)
今後、新しい市長のもとで市政運営がされていくと思うのですが、どのような思いで見守っていくのか。あるいはアドバイスなりご発言をしていくおつもりなのか。いかがでしょうか。
(市長)
引き継ぎについては、実質的には今日までですけれども、やれることは全て引き継いで、日曜日からはまさに新しい市長さんの下で新潟市民がさまざまな成果、果実を手にできるように精いっぱい頑張っていただきたいと思っています。先ほど申し上げたように、県との関係も含めて、その土台、道付けは花角知事誕生以来、最大限やってきたつもりです。あとは、任期の終わった人間はさっさと引っ込むのが一番いいので、でしゃばらないようにしたいと思っています。
(記者)
こうした形での会見でのメッセージの発信というのは今日で最後になるかと思うのですけれども、今まで多くの市民の方がメディアを通して聞いたりしてきたことですが、あらためて市民の皆さんに、新潟市への期待も含めてメッセージがあればお願いします。
(市長)
超高齢社会というのが自治体にとっては一番重い課題だと思うのですけれども、その中で、大都市圏は本当に異次元の高齢化だと。ずっと会社人間だった人が、昔のニュータウン、何とか団地に帰っても、地域と何の関係もないと。どのような生きがいを作っていいのか分からないという中で、新潟の場合は地域との絆というのがけっこうありますし、また、地域でボランティア活動をやっていただいたり、コミュニティ協議会に入っていただいたり、あるいは「実家の茶の間」、モデルハウスで新しい支え合いのしくみに参画しているという市民がいっぱいいらっしゃると。これは新潟市のアドバンテージだと思うので、そこにさらに大地、農業と関われる大農業都市の優位性。新潟市だけ見ているとお分かりにならないと思うので、大都市圏、特に国道16号線の、昔、何とかニュータウンというのがあったところ、ここの状況を私も新聞記者に戻ったつもりで、若干取材させてもらって、その中の問題点と、今、新潟市が抱えている問題点とこんなに違いますよというようなことで、新潟というのは生きがいを見つけやすいし、また助けあいの絆、新しい支え合いのしくみが作りやすい特性を持っているのだと。だから超高齢社会の中でも健康寿命延伸にみんなが力を合わせていただければ、最も安心安全な政令指定都市、県庁所在都市に新潟市はなれるということを、今後も何らかの形で発信できればしたいなと。それを市民にお届けすることが少しでも安心感、あるいは、私も生きがい作りの中で地域のネットワークに参加しましょうという市民が増えていただければ大変ありがたいので、私も何らかの形で地域の絆に加わらせていただきたいと思っています。
(記者)
市長は就任前に新聞記者をやられていて、こちらサイド(記者側)だったわけですけれども、こちらから行政のトップになられて、こういった形で記者から質問等を受ける場面があったかと思いますけれども、メディアとの向き合いというのは、16年間を振り返られて、いかがですか。
(市長)
新聞記者として30年やってきたので、その質問の仕方は失礼ではないかとか、言い方がどうなのだろうとか、つい新聞記者サイドで考えてしまうことがあって、それが応対のときに少し出ている面があったと思います。基本的には皆さんの質問は、その向こうに市民がいらっしゃる、市民に聞かれているのだということで素直にお答えすればいいのに、ときどき新聞記者OBの顔が出た部分があるかもしれないと。それは申し訳なかったなと思っています。市民にできるだけ分かりやすく、このような会見の場を通じて説明責任を果たすという部分が、時として新聞記者OBの方が優先してしまうことがないわけではなかったという点は申し訳なく思っています。
(記者)
超高齢化社会と、これから異次元の人口減少社会に入るわけですけれども、これからの行政のあり方について、どうなっていくのではないかとか、思われている部分というのはありますか。
(市長)
あれもこれもは無理ですよねという部分と、行政は行政の、これは責任がますます大きくなると思うのですが、全体の暮らしの中での役割というのは、むしろ、行政の役割はそれほど大きく発揮できなくなるかもしれないと。しかし、方向性、将来の姿、さまざまなデータを早め早めにお届けすることで、地域ができることは地域でやっていこうとか、そういうことが行政にはできないのか、民間はこういうことは得意だよというような、役割分担をコーディネートしていく機能が行政にはますます求められていくのではないかなと。これはおそらく過疎地域、わりと人口減少を先取りしている地域はそこの準備が私たちよりも整っているかもしれないので、超高齢社会に5年前、10年前からなっていますよというところの対応を学んでいくことも、私たちのような図体の大きい政令市などは必要かなと。
一方で、先ほど言った異次元の首都圏などの大都市圏に比べるとこんな優位性があると。これをどう特性としてはっきしていくのかという辺りについても、比較しながら、新潟市は将来に向けて安定の土台があるよという安心感を持っていただく。データを見える化することで地域にやる気と安心感を持っていただくことも、新潟政令市の大きな役割なのかなということは感じています。
(記者)
先ほど、時代をご自身が三つに分けて、16年を振り返っていて、はじめはイケイケな感じで、次が波瀾万丈、疾風怒濤。その次がテレビドラマのようだと。次の新潟市はどのような時代になると予想されますか。
(市長)
こちらも自らシナリオを作ってテレビドラマにしたわけではないのですけれども、政令市になり、一刻も早く先輩たちに追いつこうとして背伸びした部分が、市議会議員の方にも言われましたけれども、あんまりあれこれやるとこっちはついていけないよと言われた部分があって、これからは私は安定期というか、基調は人口減少、超高齢化、少子化にどう対応するかということですし、そのためには交流人口を増やしていくと。やがてインバウンドの宿泊人口が国内の宿泊人口を追い越すという時代なので、今まで拠点化、とにかくクルーズとエアラインは大事だと言っていたわけですが、それを伸ばせる体制ができつつあると思うので、せっかく来てもらった方に新潟の素晴らしさを楽しんでいただき、リピーターになっていただく。やるべきことを2020年の東京オリンピック・パラリンピックに向けて、新潟プラス東京運動ではやれることを徹底的にやってみるということが必要なのかなと。あれもこれもから、この厳しい時代潮流の中で、この1年はこれを徹底的にやるという方がいいのかもしれませんね。こちらも徹底的にやらなかったわけではないのですけれども、あっちもこっちもやる必要があったという辺りで、少し散漫な印象を与えたかもしれないなと。これからは散漫ではだめなので、集中して新潟の魅力を磨き、いくら磨いてもよその人に伝えられないとだめだと思うので、その伝え方なども新潟県、県内市町村総力で民間の知恵を借り、地域の力を借りてやっていく、そんな時代なのではないかと思っています。
(記者)
安定期へということですけれども、中原新市長のもと、新潟市は安定して進んでいくでしょうか。
(市長)
少なくとも、私の市政よりも安定するのでないかな。特に花角知事と中原市長、そして今、北東アジアを巡る国際環境も、楽観はできませんけれども、日中の関係も二、三年前に比べたら劇的に改善しているし、ロシアは日本の投資を非常に重視していると。朝鮮半島も、ひょっとしたらいい展開が訪れるかもしれない、劇的に展開するかもしれないので、それに向けてできる準備は最大限していくと。天地人が新潟は今いい形になっているのではないかなと。その中に私が辞めるということも、その材料としていい方向になってくれればいいかなと思っています。
(記者)
できればもう4年間、実はやってみたかったということは。
(市長)
今、そんなことを言うばかはいないでしょう。
(記者)
中原新市長に期待することと、求めたいことなどはありますでしょうか。
(市長)
これは私が言ったのではなくて、今までの県市調整会議の行司役の北川正恭さんが言ったのですけれども、アブノーマルも困るけれども、あまりにもノーマルだと、これもなかなか大変なのだということをおっしゃっていました。ということは私がアブノーマルということですかと聞いたら、君はそれほどではなかったというお言葉をいただいたので、今度はあまりにもノーマル同士ですよね。そこの中で、良かったと思っているのが県庁と市役所職員だけだった、ということにならないようにしなければだめですね。県民、市民から、ノーマルで良かったと言っていただくためには、やはり県庁の方、新潟市役所の方が力を合わせて、ここの分野で成果を届けたいということは、知事も中原次期市長もおっしゃっているわけですから、首長だけではできないので、県庁組織、市役所組織として、組織力で頑張れる次期体制になってもらいたいと思っています。
(記者)
退庁を3時間後に控えられて、今どういうお気持ちでいらっしゃいますか。すがすがしいお気持ちですか。
(市長)
やはり心身共に今のところ健康なので、もちろん最後の日ですから、議場でも温かく送り出していただけたということなので、心身健康、笑顔で16年目を終われるのは大変ありがたいと。それもやはり市民の皆さんのご理解のおかげだということで、基本的には感謝ですかね。
(記者)
できなかったことも一部であったというお話だったのですけれども、ご自身の中ではできることは最大限やったということでしょうか。
(市長)
いろいろな時代潮流、時代背景、人との関係の中で、私としてほとんど能力は使わせてもらったかなと。最後の二つの選挙も含めて、そう思っています。
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